[ 安部雅文のエッセイ ]
「吾妻鏡」という歴史書がある。恐らく学生時代に日本史の授業でタイトルだけは目にしたはずである。この歴史書は鎌倉時代の武家政権や社会の動きを将軍の代ごとに日記形式で記述されたものを、北条氏など鎌倉幕府内部の有力者が鎌倉末期に編纂したものと考えられている。後世の武将にも愛読され、徳川家康はこの「吾妻鏡」を再編集して木活字で刊行した。家康はこれを座右の書として幕府運営の参考にしていたという。
その「吾妻鏡」の中に、あるスピーチが記述されている。そのスピーチとは1192年に鎌倉幕府をひらいた源頼朝の妻、北条政子が今から785年前の1221年(承久3年)5月19日に行ったものである。この時鎌倉幕府には最大の危機が訪れていた。2年前に三代将軍実朝が暗殺され、それ以降幕府内では混乱状態が続いていた。さらに政治の中心が京の朝廷から鎌倉に移ったことに対し、後鳥羽上皇が実権を取り戻そうとこの年鎌倉幕府追討を宣言した。そのような状況下で幕府存亡の危機に臨み、政子は武士たちを集めスピーチをした。
政子が行ったスピーチの内容は「吾妻鏡」にこう記されている。(原文は漢文)二品(政子)家人等於簾下に招き、秋田城介景盛を以って示し含めて曰く、皆心を一にし而奉る可し。是、最期の詞也。故右大將軍が朝敵を征罰し、關東を草創するの以降。官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩既に山岳於こえ
て高く、溟渤於こえて深い、報謝之志淺からん乎。而るに今逆臣之讒に依て、非義の綸旨を下被る。名を惜む之族は、早く秀康、胤義等を討ち取り、三代將軍の遺跡を全う可し。但し、院中に參らんと欲っする者は、只今申切る可し者り。
これを現代調にするとこんな感じになるのではないか。
「みなさん心を一つにして聴いてください。これは私の最後の言葉です。頼朝様が朝敵を倒し、関東に武士の政権を創ってから、あなた方の官位は上がり収入も増えましたね。それはすべて頼朝様のお蔭です。そしてその恩は山よりも高く海よりも深いものです。しかし今その恩を忘れ天皇や上皇をだまして、私たちを滅ぼそうとしている者たちがあらわれました。名を惜しむものは藤原秀康・三浦胤義らを討ち取り、三代の将軍の恩に報いて欲しい。もしこの中に朝廷側につこうという者がいるのなら、まず私を殺してから京都に行きなさい。」
鎌倉御所に集まった多くの武士たちが皆、このスピーチを聴き、涙を流した。その場で彼らは一致団結し京にのぼり朝廷の軍と戦うことを決意した。(群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺みて返報を申すに委しからず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ。)
その後19万の大軍が集まったといわれる。戦いは数日で終了し、鎌倉側は勝利した。承久の変である。平家を討伐した源頼朝による鎌倉幕府設立は、武士の事は武士がおこなうという東国武士による京都からの自治権の獲得運動だった。しかしこの承久の変は京都の朝廷を中心にした今までの政治体制を終わらせ、鎌倉の幕府による武士中心の新しい政治体制へと完全に移行させた「革命」であった。その契機は政子が行ったスピーチだったのである。
北条政子のこのスピーチは日本の歴史の中で最高のスピーチではないかともいわれている。それはこのスピーチが歴史を動かし、歴史を創ったからである。スピーチとは歴史をも動かす力をもっているものである。




