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敬天愛人

[ 安部雅文のエッセイ ]

 先日、私は以下の一文の存在を初めて知った。何やら古めかしい調子の文章ではであるが、まず以下の文章を声にしてゆっくりと読んでいただければ幸いである。
「天を敬い人を愛し、天を識り己を盡くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
即ち天とは宇宙を含め天地自然の道であり、人の道でもある。故に天地自然を敬うは天意である。天は人も我も、同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以って、人を愛すなり。」
(原文は漢文)

 この文章は幕末に薩摩藩士として、明治維新を成し遂げた英雄、西郷隆盛のものである。西郷はこの文章を好んでよく使い、書画にも記した。この文章にある教えは「敬天愛人(けいてんあいじん)」といわれ、西郷の自己修養のための指針(目標)と、彼の信仰的とも言える天命への自覚を表している。「敬天愛人」とは西郷が結論として得た、人がとるべく道・進むべき道である。

 この教えは西郷が明治10年の西南戦争で非業の死を遂げたあと、明治23年1月に旧庄内藩(山形県鶴岡)の人々によって編集、出版された「南州翁遺訓」という本の中で、初めて全国に紹介された。なぜ旧庄内藩の人々の手によるものだったのか。そもそも庄内藩は鳥羽・伏見の戦いのきっかけとなった、江戸の薩摩藩邸焼き討ちを行った藩であり、戊辰戦争でも薩長を含む新政府軍に執拗に抵抗した。そのため降伏したさい、厳重な処罰が下ることを、藩主並びに藩士らは覚悟していた。

 しかし結果は極めて寛大な処置が取られ、この温情ある処置に対し庄内藩士達は非常に感激した。それは西郷の指示であり、意志であった。後日このことを知った彼らは、西郷を大いに慕うようになった。そして明治3年8月に旧庄内藩主・酒井忠篤は旧藩士76名を引き連れ、鹿児島の西郷を訪ねた。彼らは翌明治4年3月まで鹿児島に滞在し、西郷から親しく教えを受け、学び、西郷が語ったことを記録して持ち帰った。

 明治22年大日本帝国憲法発布の特赦により、西南戦争での西郷の賊名が除かれた。そのあとすぐに、彼らは西郷の教えを朽ちさせてはならない、この遺訓を世に多く広めたいという思いで、鹿児島で記録した内容を一冊の本に編集し出版した。それが「南洲翁遺訓」である。その中に西郷の「敬天愛人」の教えが記されている。

 西郷が示した「敬天愛人」の教えとはどんなものであったのか。まず漢字一字ずつの意味を見てみる。「敬」とは「うやまう」「つつしむ」「いましむ」のことである。「天」とは「宇宙」「神」「仏」“something great”を意味する。「愛」とは「いつくしむ」「したしむ」「めぐむ」「憐れむ」のことである。「人」とは「天地の本質」「最も貴いもの」を意味する。これらから全体的に言えることは、人は大いなるものの前では謙虚にならなければならない。そして大いなるもの、つまり天が与えてくれた人としての命は尊く、生かさなければ天意に背くことなる。天は人々を平等に、かつやさしく愛してくれるものである。だから人は天命を自覚し、自らも他の人に対しても、天と同じように、慈愛を持って接することが何よりも大切である。以上は数多くある解釈のうちの、一つの解釈である。

 西郷が慈愛を持って人と接することを示す行動の一つとして、常に人の話をよく聴いたと言われる。その人がたとえどんな人であろうとも、その人の言うことや意見に、真摯に耳を傾け受け止めるという、偉大なる聴き手であった。そして自分の思いや考えが間違っていたと思ったときは、すぐに素直に率直に朴訥に、時には目に涙を浮かべながら、薩摩弁で「おいが間違っていもした」と頭を下げた。そんな西郷の姿勢に触れた者は皆、西郷のために自分のすべてを投げ打とうと思ったと言われる。

 西郷と西郷に面した者とのコミュニケーションは、言葉は少なくとも、駆け引きやごまかしのない、通じ合える、とても清々しいものであっただろう。それはすべての物、人を優しく包み込んでくれるような魅力が、西郷にあったからだ。天と同じように誰へだてなく愛情を注ぎ、自らを厳しく律し、無私無欲の人であることを、終生心がけた西郷の姿勢とマインドがもたらしたものに違いない。

 西郷の終生の行動は、西南戦争における行動も含め、天命の自覚ということから発している感が強く、政治家と言うよりも思想家に近かったと思われる。従って徳川幕府の政権を終わらせ、新しい国家を築こうとした西郷の心中にあった国家の理想像は、非常に高い次元のものだった。そのため政治家としての道を歩むには、余りにも清廉過ぎる人物であったのだろう。


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