[ 安部雅文のエッセイ ]
タイトルの人物に強く興味をひかれたのは、ある本を読んだからからである。その本とは内村鑑三著、鈴木範久訳「代表的日本人」(岩波文庫)。内村は幕末に生まれ、昭和に没した日本人のキリスト思想家・文学家・伝道師である。
なぜこの著が訳本になっているかというと、内村は明治維新をへて、近代国家へと変貌しようとてしていた日本の良さを、広く世界に紹介しようと、この本を英語で書いたからだ。内村は日本の良さを紹介するため、日本の歴史上から5人の人物を取り上げ、その人物達が行ったことについて書いた。上杉鷹山はそのうちの1人である。
内村は国・民を治める、つまり政治の理想形態を、江戸時代後期に米沢藩(現在の山形県米沢市一帯)の9代藩主として、上杉鷹山が行った治世の中に見出した。日本にはこんなにも素晴らしい政治家がいたのだと、内村は著書の中で声高々に語っている。その上杉鷹山について、2回に分けて述べてみる。第1回は、内村の著書に書かれた上杉鷹山の治世について、第2回は内村が上杉鷹山の治世をどう見ていたのかと、その著書が及ぼした影響について述べる。
(内村の「代表的日本人」に書かれている上杉鷹山については、明治26年朝野新聞社に連載された「米沢鷹山公」の内容がもとになっている。)
米沢藩は甲斐の武田信玄との「川中島の戦い」で有名な越後の上杉謙信から発している。豊臣秀吉時代は、会津120万石の上杉藩であったが、関が原の戦いで西軍に味方したため、徳川家康により米沢へ30万石として、移封・減封された。さらに米沢藩3代藩主が跡継ぎを定めず急死したため、徳川幕府により15万石にまで減封された。
石高が8分の1になったにも関わらず、その対応は重税を課すことと借金を増やすことだけで、従来どおりの藩政を続けた。そのため当然のことながら、藩の財政は深刻な破綻をきたし、領民は逃亡し、武士たちも困窮は著しく、人心は荒廃し、藩を幕府に返上するという危機的な状態までに陥った。
そんな状況下、九州の小大名である秋月家に生まれた鷹山が、17歳のとき名門上杉家に養子として迎えられ、米沢藩第9代藩主となった。鷹山はまず自らの足で領内をくまなく歩き、惨状を目のあたりにし、強い決意と認識を持った。「民の幸福は治者の幸福である。統治を誤り、民に富を期待するのは、キュウリのつるからナスの実を期待するのと同じである。」と。
この決意と認識のもと、藩政改革に着手し、亡くなるまでの約60年間、自ら率先し藩政改革を行い続けた。それにより米沢藩は豊かな藩へと生まれ変わった。
では鷹山が行った改革とは、具体的にどんなものであったのだろうか。ここでは7点挙げてみる。以下7つの項目については、現在国や企業で行われている施策、戦略というくくりでとらえ、タイトルをつけてみた。
(1)歳出削減(コストカット)
「・・居ながら亡びるを待たんより、君臣心力尽きるまで成るべきだけの大倹約をとりおこない・・」として、12か条におよぶ「大倹約令」を制定した。その中には、参勤交代などの行列を減らすこと、普段は木綿の着物を着ること、平常の食事は一汁一菜にかぎること、近親のものを始め軽品たりとも音信贈答を堅く禁じること、等々があり、家計の支出を藩主は87%、藩士は50%カットし、カットした分は藩が長期に借りるということにした。これには当然のことながら周りから強い反発もあったが、鷹山自らが率先垂範することで、この倹約は20年近く続いた。
(2)適材適所
「能力に応じた人の配置」というのは、江戸時代封建制の世襲的な性格に反するものだが、鷹山は能力のある人物には乏しい財政から惜しみなく手当てを支給し、あらゆる手段をつくして人材を登用しようとした。鷹山の頭の中には、これなくして善政は布けないという考えが強かった。
(3)ガバナンス体制(統治)
登用した人材を3つの役割カテゴリーに分け、藩内に配置した。
第一の役割は、郷村頭取・郡奉行であり、藩内を小さく分けた単位で行政一般を担う総監督である。鷹山は彼らにこう指示した。「赤ん坊は自分の知識を持ち合わせていない。しかし親は子の要求をくみとって世話をする。それは真心があるからである。真心は慈愛を生む。慈愛は知識を生む。真心さえあれば、不可能なものはない。役人は民に親のように接しなければならない。民の父母として。」
第二の役割は、一種の巡回説教師のようなものである。親孝行、寡婦や孤児への慈愛、婚礼、着物・食事の作法、葬式、家の修理等の慣習や儀式を伝える。12の地区にそれぞれ配置され、年2回合同会議を開き、民の中での仕事の進捗状況を藩主に報告する。鷹山は彼らにこう指示した。「教師である指導出役は、地蔵の慈悲をもち、心には不動の正義を忘れるな。」
第3の役割は、警察の役割である。地区を念入りに調べ上げ、悪事や犯罪を摘発し、罪状に従い厳しく罰した。鷹山は彼らにこう指示した。「警察である廻村横目は、閻魔の正義、義憤を示し、心には地蔵の慈悲を失うな。」犯罪が起こった地区の第2の役割と第3の役割を担うものは、自分がその責任を取った。
(4)守旧派の排除
改革が始まりしばらくすると、保守派・反対派が現れ台頭してきた。彼らは私腹を肥やすわけではないが、旧態にそのまましがみつくもので、改革にはどんな形でも反対を口にする人々だった。7人の重臣が45条におよぶ抗議書をたずさえ、新体制の即時撤回の口約束を強要しようと鷹山に迫った。鷹山はその場での回答を避け、家臣全員を集め、抗議書の内容が正しいかどうか問うた。家臣たちは異口同音に「いいえ」と答え、守旧派は即座に一掃された。
(5)事業再編成(リストラクチャリング)と新規事業
産業改革にあたり、生活に恵みをもたらすものは、すべて大地から与えられるものだという考えで、まず武士を平時には農民として働かせ、多くの荒廃地を農地に変えさせた。鷹山自らも鍬をふるった。農地には米・麦だけでなく、農地として開墾に適さない場所も含めて、うるし・こうぞ・桑を一人当たりの割り当てを設け、報奨金も出し、広範囲に植えさせた。うるしの実は当時ろうそくとなり、こうぞは和紙となり、桑は養蚕で絹となり、藩の製品として藩外に売られ財政を助けた。
豊かな実りをもたらすためには、灌漑が必要不可欠なものとなる。そのため長距離の用水路を造るため、大規模な灌漑事業も行った。そのため当時は不可能と思われていた固い岩盤にトンネルを掘ることすら行った。財政逼迫であっても民の幸福、公共の福祉になると確信した場合は、鷹山は惜しみなく資金を出した。これらは20年から50年の長期スパンで行われた。
(6)人材育成
富は常に徳の結果という考えから、鷹山は産業改革の中心に、家臣を有徳な人間、「礼節を知る人」に育てることを置いた。領内の才能はあっても貧しい学生に高等教育の機会をあたえるため、当代屈指の学者を招き、「謙譲の徳を振興する所」として藩校を開設し、学生には報奨金を与え、学費も免除した。
また仁政には病気を治療する施設が必要であるとの考えから、医学校も開設された。当時最高の医師が招かれ、薬草を栽培し薬学、調剤もなされた。西洋医学(蘭学)の重要性、必要性を知り、杉田玄白のもとに家臣を派遣し、医療機器まで購入し、新しい医術を学ばせ、施した。ペリーが江戸湾に姿を現す50年前だった。
(7)互助制度(社会的セーフティネット)
領内で最も重要な階級である農民に対して、鷹山は以下の教えを説いた。「農民の天職は、農作物を作り、蚕を育てることにある。これにいそしみ父母と妻子を養い、お世話料として税を納める。これはみな相互の依存と協力をもって初めて可能になる。そのためにはある種の組合が必要である。」これに従い4つの単位、組合が設けられた。
第1は5人組。5世帯を一つの単位として、同一家族のように常に浸し身、喜怒哀楽を共にする。第2は10人組。2つの5人組構成され、親類のように互いに行き来して家事に携わる。第3は同一村。複数の10人組で構成され、友人のように助け合い、世話をする。第4は5ヶ村組合。同一村5つで構成され、真の隣人同士がどんな場合にも助け合うように、困ったときは助け合う。
互いに怠らず親切を尽くす。配偶者をなくしたり、体が不自由になったり、火事などの災難などで、困ったものが出た場合は、5人組が引き受け身内として世話をする。5人組の力が足りない場合は、10人組が力を貸す。それでも成り立たない場合は、同一村で困難を取り除き、暮らしが成り立つようにする。一村が災害で成り立たない危機に陥ったときは、他の4村は決して傍観せず、喜んで救済に応じる。
これら7つ項目が、今から約250年前、現在の山形県米沢市一帯で行われていた。現在を生きている我々から見れば、これはもう驚嘆を飛び越えた世界である。本当にそんなことがなされていたのか。嘘じゃないのか。信じがたい。おとぎの国の話ではないのか。とそう思ってしまうのだが、いやこれは史実として、実際におこなわれていたのである。上杉鷹山という、我々日本人の先人の手によって。次回は内村が鷹山をどう見ていたのかと、彼の著書がおよぼした影響について述べる。(続く)




