[ 大嶋友秀のエッセイ ]
JR西鹿児島駅からバスで揺られること2時間。薩摩の小京都と呼ばれる小さい山あいの町、知覧町に到着します。お茶と江戸時代の武家屋敷、そして平和記念会館のある町。特攻兵たちが出撃直前まで身を寄せていた町。特攻兵として死去した人と同数の石灯籠が街路に並んでいる町。そして、60年前に特攻機地があった町…それが知覧なのです。
知覧町に興味を持ったのは、終戦間際の悲惨な出来事を知っていたからではありません。10年前、ある雑誌で1つの公募を見つけました。知覧町主催「全国スピーチコンテスト」募集。開催日は8月15日の終戦記念日で、戦争、平和や命について考えようという企画でした。
これがきっかけで、スピーチコンテストに挑戦しようと思いました。私は当時、トーストマスターズクラブという非営利の国際スピーチ教育機関のメン バーでした。そのクラブで何回もスピーチコンテストに出場していましたから、コンテストに抵 抗感はなく、むしろ軽い気持ちで参加してみようと考えていました。
ところがそれから一ヶ月、考えがまとまらないのです。今から思えばそれは当然でした。戦争体験があるわけでもない。伝えたい思いが強いわけでもない。父親が戦争中、ゼロ戦のプロペラを作っていたなんて話を半信半疑で人づてに聞いたぐらいでした。
そんな私から平和への強い願いも、戦争を憎む言葉も出てくるはずはなかったのです。なんとか、韓国人の友達の徴兵体験を元にスピーチをまとめましたが、そんな付け 焼刃の原稿は簡単に一次選考で落とされてしまいました。
でも、私の心には好奇心が芽生えていました。どんな話がスピーチとして出てくるのか、無性に見たくなったのです。その年、知覧を訪れました。例年になく暑い夏でした。特攻おばさんとして有名な鳥浜トメさんの當屋旅館に宿泊。セピア色に変色した当時の写真や国旗の展示品。食事中に流される反戦のビデオ。スピーチコンテストの始まる前から、私には知覧という町全体が語り部のように感じられました。
実際のコンテストは元兵士の話、空襲で親族が死んだという体験、あるいは親兄弟が戦時中に苦労を重ねた裏話など経験者だけが語れる内容でした。「話す技術」そのものは稚拙でも、伝えたいメッセージがあれば感じるものがあるのです。
また、企画した知覧町の熱い思いも感じました。私は自分の目で見て、耳で聞いて初めて分かったのです。踏みにじられた命や生活のことを、間違いなく知っておかなくてはならない、そして次の世代に伝えなければいけない。
知覧町のスピーチコンテストは、次の世代に忘れられようとしている、戦争の話を 伝えているのでした。知覧町は語り部になっていたのです。そして、これは日本の文化というコンテクストの中で、スピーチが活かされている、と教えてもくれました。
このことは「スピーキングエッセイを世の中に広めよう」、「みんなでエッセイを話してみよう」という、私たちの会社が目指しているものと 同じです。「スピーキングエッセイ」の考えを広げていけば、いろいろな人の考えや経験を周りに伝えていくことができます。大切なメッセージを伝える仕組みを提供していく行動。それは「スピーキングエッセイ」が21世紀に活動している会社として、果たすべき大きな社会責任なのです。




