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語り部の町-知覧旅行記①

[ 大嶋友秀のエッセイ ]

 インターネットニュースを見ていて、知覧とその特攻おばさん、鳥浜トメさんの話が映画になることを知りました。制作・脚本が現東京知事の石原慎太郎氏、キャストには復帰第二作の窪塚洋介さん、主演に岸敬子さんなどの豪華なスタッフの布陣です。

 私は、十数年前に知覧を訪れています。鳥浜トメさんがいた冨屋旅館を訪ね、宿泊し、知覧町主催の平和を願うスピーチコンテストを見て、旅行記として書き留めました。

 昨年(2005年)、講談師の宝井梅星さんの「ホタル帰る」の新作を発表されたときにうかがったのですが、2004年に彼女が冨屋旅館を訪ねたときは、旅館でなく記念館だったそうです。

 今回、会社のウェブサイトにアップしようと思ったのは、その内容がたいせつであることはもとより、スピーチという形式の中で、忘れてはいけないことが伝承されているからです。十数年前の旅行記ですが、あえて修正を加えないで、何回かにわけてアップをいたしました。お楽しみいただければと思っております。

 語り部の町~知覧旅行記①

 八月十四日、私は熊本駅から九時二十分発の特急かもめ号に乗って西鹿児島へ向かっていた。薩摩の小京都といわれる知覧を訪れるためだ。
「知覧へ?知覧に何があると?何しに行くんと?」と昨晩、熊本で友達と飲んでいるときも訊かれた。
 知覧と言えば、ガイドブックでは江戸時代中期の武家屋敷群の写真が添えられ、山間にある小さな静かな町として紹介されている。また、第二次世界大戦の終戦間近には、沖縄戦線への特攻基地があり、多くの若者が飛行場から飛び立っていったところでもある。
「平和っていうものをゆっくりと考えてみたいんだ。戦争の痕跡を訪ねて、自分で感じとってみようと思ってね」と私は答えた。
 友達は、ふうんと頷きながらも何かぽかんとしていた。

 そもそものきっかけは、知覧での五年前から毎年、開催されている平和を考えるスピ-チコンテストだ。今年、そのコンテストに参加しようと原稿を書いて応募した。ところが、一次選考で落とされてしまったのだ。テ-マは、平和か人の命に関してのスピ-チであった。戦争体験があるわけでもなく、またまわりに戦時中の体験を語るひとがいるわけでもない。私が幼い時に、亡くなった親父が戦時中ゼロ戦のプロペラを作っていたことを人づてに聞いたことぐらいしかない。サラリ-マンとして日々追われるように過ごしてきている私にとって、そのテ-マは書きやすそうに思えて、実は大変難しいテ-マだった。一ヵ月間、考え抜いて随分と苦心してスピ-チを作成した。スピ-チが完成した時に、心の中にひとつの大きな疑問が生まれていた。平和ということについて、私は一体、何ができるのだろうか。また、何をするべきなのだろうか。

 もちろん、平和を強く願うものである。しかし、それが自分自身が具体的に何かをしているわけでもない。平和であることの恩恵を思いっきり享受してはいるが、そのための代価として何かを犠牲にしなくていけないという問題意識があるわけではない。その疑問がだんだんと大きくなっていって、知覧でのスピ-チコンテストに参加する人たちや知覧という町そのものへの関心という形に姿を変えていた。
 だから、行ってみよう。自分の目で体で、感じてみよう。そう思い立ったのだ。

 車窓からは、右も左も見渡すかぎり広がっている田んぼや山々だ。どこまで行っても、民家はあまりなく、稲穂が青々と地面を覆いつくしている。目に入ってくるもの全てが緑でいっぱいである。ときおり、電車は海岸線に出るため海が見える景色が続き、海の向こうには天草諸島が鮮やかに姿を映し出していた。台風が中国の方へ逸れていったためか、空は透き通るように真っ青で、空一面に張り出している入道雲ともコントラストが映え、何か心の鬱蒼としたものが全て吐きだされていくのが分かった。私はそんな景色をぼんやりと眺めながら、ビ-ルのプルトップを引き抜いて、冷たいビ-ルを啜った。五十年前に知覧へと特攻隊として赴任していった若き兵士達は、電車から見える景色をどういう心境で眺めていたのだろうか。

 西鹿児島の駅に着いて、駅員さんにバス停の場所を訊くと、山形屋バスセンタ-からのバスで行ってくださいと言う。タクシ-で十分ぐらいだからと説明を受けた。
「山形屋バスタ-ミナルまで」
 気の良さそうな運転手さんに言った。
「お客さん、地元の人ですか?」
「いや、東京からですよ。旅行でね。知覧まで行くんですよ」
 本当は千葉に住んでいるのだが、聞かれた時には東京ということにしている。何よりもわかりやすいと思うからだ。
「東京ですか。私もね、亀戸に十五年ぐらい居てね。おふくろの具合が悪くなったんで、今年、こっちに帰って来たんですよ」
「へえ、車の運転は混んでないから、楽でいいんじゃないですか?」
「いやあ、こっちはのんびりしすぎていて、なんか張りがないですよ」
 とりとめのない話をしている間に、バスセンタ-に着いた。

 切符売り場で武家屋敷までのチケットを購入した。都内を走っている少しでも沢山の人を乗せる輸送手段に徹したバスではなく、観光バスのような全席が進行方向に向いている型だった。鹿児島市内をゆっくりと廻ってから、どんどんと山の中へと走っていく。窓越しに見える景色がしだいに寂れていき、バスは大きなカ-ブに沿って、私の体を右に左にと揺らして進む。知覧という町はとてつもなく人里離れたところである気がしてくる。バスに二時間ばかり揺られて、私は知覧に到着した。
 小京都と言われるだけあって、町を取り囲むように山が連なっている。山の麓の民家まで間近に見ることができる。ガイドブックにも書かれていたが、本当に小さい町だ。私は京都で生まれ育ったため、山に取り囲まれていると心が落ち着く。故郷に帰ってきたような懐かしい気持ちが芽生えてきた。

 バスが知覧町へ入ってから、何か変だなあと感じていた。町は木々に満たされ、目に飛び込んでくる景色はどれも心を和ませてくれるが、何かが欠落しているように思えた。武家屋敷前のバス停で下車した。おみやげもの屋さんの店の前で、何人かのおばさんたちが手持ちぶさたで立ち話をしているのを見て、何が足りないと感じたのかが分かった。人気がないのだ。気のせいかもしれないが、道を歩いている人がほとんどいなかったのだ。人が密集している都会の生活に慣れてしまっているためかもしれない。

 こんな静かな町に、明日、スピ-チコンテストが本当に開かれるのだろうか。
 本当にわざわざ、千葉県から来たかいがあったのだろうか。
 私は、額から流れる汗をぐっしょりと湿ったハンカチで拭いながら、少しばかり後悔し始めていた。

 少し歩くと、武家屋敷への表示を見つけた。表示板に示す方へと歩いていくと、突き当たりのところにパラソルを立てて、アイスクリ-ムを売っているランニングシャツのおじさんが座っていた。入園料はいくらと看板に記してある。チケット売り場はないらしい。チケットを買うと、そのおじさんは、簡単にどこに武家屋敷があるかを教えてくれた。武家屋敷が並んでいる道を歩いていくと、観光客らしい人達の群れとぶつかった。人気がないなあと思っていた不安は薄らぎ、何かほっとした。

 道の両脇には、整然と石垣が連なっている。おごそかな腕木門をたづさえた武家屋敷が並んでいる。これは、第十八代知覧領主島津久峯が藩政をひいていた時代に、藩内に百十三築いたと言われる外城と呼ばれるものだそうだ。領主の御仮屋を中心として道路割りを行い、防備を兼ねた城塁型の区画となっているという。

 この武家屋敷群は、昭和五十六年に『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されている。そして、その武家屋敷群の中にある七つの庭園は国の『名勝』に指名されている。
 私は、最初、築山池泉式庭園である森氏庭園をのぞいた。
 正直言って、私には庭園が築山池泉式であるか、枯山水式であるのか区別はできない。パンフレットに書いてあるとそうなのかと納得するだけだ。ただ、それでも、私は日本の庭園を見るのは好きだ。じっくりと凝視していると、自分の体がどんどん小さくなっていって、目の前の庭が庭園の枠をはみ出していって大自然の一部であるかのように感じるからだ。熊本から鹿児島へと向かう途中に電車の車窓から眺めた山の連なりや、広がっている田んぼや、海岸線からのぞいていた海や島々の情景をその庭園の中から再び見つけることができたのだ。

 ふと気がつくと、髪の毛を赤茶色に染めていて、片方の耳に三つもピアスのイアリングをしている二十歳前の若者たちも、しんみりと庭園を見つめていた。
 日本の庭園の持つ幽玄なパワ-は、つっぱり少年たちの心にも何かの感動を与えているのかもしれない。

 屋敷の横に建てられた蔵を見ている観光客に、地元のひとが説明をしていた。
「この蔵の屋根を見て下さい。紐で括られていますね。これは、蔵が火事になった時に、蔵のなかのものが蒸し焼けにならないように取り外すことができるのです。こういうところにも、その当時の人達の知恵と工夫が施されているのです」と得意気に話している。その説明を聞いて、観光客のひとたちは、ふう-んと深く頷きながら、カメラのシャッタ-を押していた。しかし、蔵が火事で燃えているときに、どのようにして、蔵の屋根を取り外すことができるのだろうか、と私は不思議に思った。質問してみたかったが、聞いてはいけないことのように思えて、聞くのをやめた。

 私は、森氏庭園を出て、他の庭園を見てまわることにした。石垣とイヌマキの生け垣によって直線的に造られた道筋を歩きながら、何組ものカップルを見つけることができた。知覧町でのデ-トスポットのひとつなのだろう。また、家族づれで訪れている人達も多かった。私のようにひとりで来ている人は、ほとんどないようだ。途中で一人旅をしている女の子がいたので、声をかけようかと思ったが断られると気分が悪くなるので諦めた。

 初めに観た森氏庭園以外の庭は、全て枯山水方式の庭だった。同じ方式ではあるが、庭園の雰囲気はそれぞれに独創性があり、観ていて飽きることはない。おなかが鳴らなかったら、ずっと鑑賞していただろうと思う。よくよく考えると、電車の中で幕の内弁当を九時頃に食べたきりだった。時計を見ると三時を少しまわったところだった。ちょうど、武家屋敷が並んでいる道沿いに、やはり同じように武家屋敷造りのお食事処があった。私は縁側の小さい机の前に腰を下ろした。中学生ぐらいの少女が知覧茶を持ってきてくれた。ざるそばを頼んで、庭の方へ視線を向けた。『名勝』とまではいかなくても綺麗に手入れされた庭だった。油蝉がみんみんと鳴いていた。それでいて、そんなに暑くなく庭から店の中へと心地よい風が吹き込んでくる。その風に吹かれていると、例年にないぐらい暑かった夏も確かに終わりに近づいていて、秋がすぐそこまで来ているのを肌で感じとれた。

 武家屋敷を観おわると、泊まる宿が近くなので荷物を置きに、まずチェックインすることにした。地図を頼りに歩いていくと少し大きめの交差点があり、その一角には知覧町役場の建物があった。木造の二階建ての古びた建物みたいなイメ-ジがあったので、鉄筋コンクリ-ト造りの建物が役場だと分かった時には、何か裏切られたような気分になった。どうやら、知らず知らずのうちに、知覧町のイメ-ジを横溝正史が描く小説のなかの八墓村などのいなか町とダブらせていたようだ。役場の交差点に面するところに、明日のスピ-チコンテストの立て看板があった。

『八月十五日
 平和へのメッセ-ジfrom知覧
 第五回スピ-チコンテスト
 場所 知覧町民会館』

 その看板を見つけて、とうとう知覧までやってきたのだと実感した。スピ-チコンテストには、どんなひとたちが参加するのだろうか。そして、どういう話をするのだろうか。とにかく、明日が楽しみである。(つづく)


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