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語り部の町-知覧旅行記②

[ 大嶋友秀のエッセイ ]

 役場から五分程歩くと、道路沿いに二日間宿泊することになる富屋旅館を見つけた。
 何とこれが旅館か!と思わず声を出しそうになった。
 古い!というよりも、ぼろい!

 それが、率直な第一印象である。
 旅館の入口こそ磁器タイルで贅沢そうに造ってはある。だが、正面の二階に見える窓の木の格子は、もともとは黒い色だったようだが色もくすみ、全体的に剥げていて遠目には随分と白っぽく見えた。旅館の横側にまわると、屋根が斜めに付いているのか、窓が平行に開いていないのか、何か立て付けがおかしいのだ。

 私はどちらかというと、旅行へ行くときに泊まる宿には、こだわらない方だ。しかし、建物の形が歪になっている宿に泊まるのは初めてだった。本当を言うと、泊まりたい宿は別にあった。明日のスピ-チコンテストに参加するひとたちが宿泊しているところを望んでいたのだ。コンテストを前にしている参加者にいろいろと話を聞いてみたかったからだ。なぜ参加しようと思ったのか。今、日常生活のなかで平和に対してどう取り組んでいるのか、などなど。山のように聞きたいことがあったのだ。だから、町役場の人に聞いてみたが、満室になっているということだった。かわりにと、申し訳なさそうに紹介してくれた宿が富屋旅館だった。私は旅館を一目見ただけで、役場の人がなぜ申し訳なさそうにしていたのかが分かった気がした。

 麻の縄の暖簾をくぐって、旅館に入った。玄関のソファには、先客らしい二十代の後半ぐらいの男女の二人連れが高校野球のテレビ中継を観ていた。私は受付まで行って、旅館のひとを呼んだ。何の反応もない。少し早かったのだろうか。四時をすこしまわったところだ。でも、誰かいてもいい時間だ。私は何回も呼んでみた。やはり、返事が返ってこない。
「いま、二階で掃除をしているようですよ」 とソファに座っていた体格の良い男性が教えてくれた。確かにそう言われてみて、二階から掃除機の音が聞こえてくるのに気がついた。
「あっ、そうですか。じゃあ、少し待ってますよ」と言って、私も玄関のソファに腰掛けた。不用心だなあ、と内心思いながら、煙草を取り出して火を点けた。その男がテ-ブルの上の灰皿を私の方に置いてくれたので、二人に向かって軽く会釈をした。

 その時、電話が鳴りだした。私たちは、しばらく電話をほっておいたが、二階の掃除機の音は止まる気配がない。女性の方が二階へと階段を駆け上がろうとした時に電話が切れた。すると、すぐにまた電話が鳴った。今度は、男の方が二階へ小走りで旅館のひとを呼びに行った。掃除機の音が鳴りやみ、二階でその電話を取っていたようだ。親子電話の子機が二階にあるのだろう。二階からカップルの男の方のひとが下りてきた時、思わず目が合った。私たちの間に、僅かながらの連帯感のようなもの、それは小さい子供が一緒に悪戯をした時の一種の友情に近いものが生まれたようだ。ソファに座るなり、その男の人が話しかけてきた。
「どちらから、来られたんですか?」
「千葉県です。千葉っていうより東京って言ったほうがピンときますよね」
 私は、煙草に火を点けて、一息煙を吸い込んでからテレビの方へ吐きだして訊いた。
「新婚さんですか?」
「いえいえ、もう結婚して五年になります」「へえ、お二人とも若そうに見えたので、私はてっきりと新婚さんだと思ってました。どちらからですか?」
「福岡からです。昨日の夜、突然、知覧へ行こうってことになりましてね。旅館に電話を入れたら、空いてるって言われてね、それで来ることになったんですよ」
 この二人は、山口慎滋さんと妻の靖子さんだ。山口さんは福岡銀行に務めている営業マンで、奥さんは看護婦さんであるという。

 私たちは、すぐに打ち解けて同学年の友達のような雰囲気になった。山口さんは、まるで西郷隆盛を連想させる立派な体格をしている。最初見たときに怖そうに見えたが、話していると物腰がやわらかい好青年だ。銀行の営業マンだと知ってとても納得できた。靖子さんも落ち着いていて好感を持てた。とりとめもない話をしていると、二階から旅館の女将さんらしきひとが下りてきて、先客の二人を部屋へ案内していった。女将さんは、三十代の後半ぐらいの愛らしい童顔のひとだった。

 私はひとり、旅館の入口に残された時、一階に飾られた沢山の写真と表彰状に気がついた。その写真はまぎれもなく、この地域に特攻隊のひとたちがいたことを表すものばかりだった。

 トラックの荷台に乗っている航空服を着て敬礼をする特攻隊のひとたち。女のひとと一緒に写真に写っている兵隊さんたち。飛行場を飛び立っていくゼロ戦。それを見送る女学生たち。額のなかに入れられた昔の新聞記事。ゼロ戦の飛び立っていく絵に、直筆で書かれた数々のメッセ-ジ。そして、ところどころにあるお婆さんの写真。元陸軍飛行学校から警察までの鳥浜トメ、というひとへの表彰状。それら全てが一階のロビ-の壁いっぱいいに飾られている。額縁のなかの賞状が太陽光線で黄色っぽくなっているものや写真の隅っこが破れたり、茶色くなっているものもあった。

 私はこの古ぼけた旅館のなかに戦争を体験してきた年輪の大きさのようなものを感じはじめていた。狭い一階のロビ-を好奇心に満ちた目で眺めていたら、先程の女将が部屋の準備ができたと言って、案内してくれた。軋む階段を上がったところが私が泊まる部屋だった。こちらのお部屋ですと言われて、ふたたび私はショックを受けた。部屋に入ってみたが、本当にぼろいのである。
「今晩は花火大会がありますが、行かれますか?」と女将が訊いてきた。
「花火大会ですか。そうですね、せっかくだから行ってきますよ」
「それでしたら、お風呂は帰ってこられてからがいいでしょう」
「場所はどこであるんですか?」
「さっき、ロビ-で話されていたひとも、行かれるようですから、一緒に行かれたらどうですか?場所は町民会館の近くのグランドですが、歩くと三十分ぐらいはかかりますよ。タクシ-で行かれるといいですよ」
「そうですか。じゃあ、食事の時にでも相談してみますよ」
「では、ごゆっくり」
 と女将は部屋を出ていった。お茶ぐらいは入れてくれるのかなと思っていたが、セルフサ-ビスらしい。
 私は部屋をゆっくりと見渡してみた。もう何十年も使い込んでいそうな黄色いカ-テン。色がかなり褪せているために、薄汚れているように見える。さすがに、窓はアルミサッシになっていた。部屋の中から見た感じでは、窓は平行に付いている。ダイヤル式のテレビの横にはちゃっかりとコインボックスが付いていて、百円を入れないとテレビは付かない。しっかりと閉まってくれない木の扉があり、廊下の漆喰の壁が少しばかりのぞいている。木のテ-ブルが部屋の真ん中に置いてあった。お盆には一人分の茶碗と急須があり、知覧茶が用意されていた。

 旅館と名のつくところに独りで泊まるのは初めてのことだった。就職した年の夏休みに山陰地方へ一人旅をしたことはあったが、その時はユ-スホステルを利用した。仕事で出張したりした時には、ホテルのシングルル-ムが常だった。ユ-スホステルでは、仲間を見つけることができたし、ホテルでは一人でいることに何とも思わなかった。それが、入口はちゃんと閉まらない木の扉と隣の声が聞こえてきそうな壁だけで仕切られた空間にいると、ひとりでいることが不自然な気がしてくる。食事までの時間が一時間ほどあったので、私はたまらず、テレビの高校野球の続きを見ることにした。

 大広間での食事は、それぞれの家族や友達ごとに用意されていたので、私は一人で一つのテ-ブルを使うことになる。しかし、そのテ-ブル一杯に御馳走が並び、造りが貧相な旅館であったが、食事は品数だけでも驚くほど多かった。出入口の行灯に割烹旅館とうたっているだけあって、食事は期待できそうだった。途端に、おなかがぐう-と鳴った。他のテ-ブルは全て、家族づれか、男女の二人連れで、一人で泊まっているのは私だけだ。ビ-ルを頼んで、まずは一杯目を一気に喉に流し込む。冷たい流動物が喉の奥を冷やして、胃のなかになだれ込む。たくさんの汗をかいて水分が欠乏した体も、この一杯のビ-ルで生き返ってしまうのだ。二杯目のビ-ルをコップに注いで、御馳走を食べはじめた。

 すると、流れていた音楽を止めて、女将がおばあちゃんのビデオを見てくださいと言って、ビデオをセットした。番組は、NHKや地元テレビ局の戦争末期の特攻隊に関する特集をまとめてあるものだった。特集の中でスポットを当てられているのは、特攻隊の母と慕われた鳥浜トメさんだ。番組の最初では、おばあちゃんは、特攻隊で亡くなった人達との思い出を語りながらも戦争を繰り返してはいけないと切々と訴えている。私は、度々動かしている箸を止めて、食い入るようにテレビを見ていた。

 鳥浜とめさん、明治三十五年六月二十日、鹿児島県川辺郡に生まれる。昭和四年に同郡知覧町で富屋食堂(富屋旅館の前身)を開業する。二十年、知覧飛行場が陸軍の特攻基地になってから、軍指定の食堂となる。特攻隊員たちに親身の世話をしたため母親のように慕われる。戦後は、戦死した特攻兵の遺族の人が泊まれる場所をと考え、旅館をしながら特攻隊員の供養を続け、特攻おばさんと呼ばれている。享年八十九歳、平成四年四月二二日死去。

 特攻命令を受けた特攻隊員たちは、出撃までの数日間を知覧で待機して、沖縄決戦へと飛び立っていった。そういう運命を持った隊員たちを軍神だと思って接し、自分の利益を考えずに、少しでも美味しいものを食べてもらおうと思ったそうだ。しかし、戦時中であるため食物も充分に手に入らなかったため随分と苦労して、戦争が終わった時は、自分の着物が一枚も残っていなかったという。

 番組の中で、当時の思い出をとめさんは、淡々と語っていく。朝鮮半島出身の光山少尉が、旅館に別れに来たときに「国の歌を歌うので聞いてほしい」と『アリラン』を歌い、帽子をずりさげて泣いていた話。
「ぼくの残りの命をあげるから長生きしなさいよ」と出撃していった勝又少尉の話。
 出撃前に、「明日の夕方、ホタルになって帰ってくるからね」と飛び立って行った宮川軍曹が、本当にホタルになって、次の日旅館に帰ってきたという話。
 戦争の生証人としての言葉がその悲惨さをあますことなく伝えており、何かに呪縛されたように、私はテレビを見ていた。ほとんどの特攻隊員たちは、二十歳前後で特に優秀なものばかりが集められていた。
「特攻隊員のひとたちは、皆さん日本が戦争に負けることを知っていました」
 とトメさんは語っていた。

 自分たちの死が犬死にしかならないと分かっていながら、敵艦目指して飛び去っていった若者たち。それが分かりながら、見送ってやることしかできなかったトメさんや他の人達。日本の将来へ無限の可能性を秘めていた優秀な若者たちを、自慰的な戦闘で浪費することしか許されなかった世の中の流れとそういう時代。これは、たった五十数年前の日本であったのだ。私がビ-ルを飲みながら、御馳走を食べて舌づづみを打っているこの場所で、五十年前は二十歳そこそこの若者たちが遺書をしたためていたのだ。

 トメさんが生きている時は、旅館のお客さんたちにその体験を語っていたという。繰り返し繰り返し、訪ねてくる遺族の人や旅館に泊まる人たちに語り伝えたそうだ。今は、孫にあたる鳥浜義清夫妻が継いでいる。戦争が終わってから、語り部として生きたトメさんの遺志を受け継いで、富屋旅館も語り部たらんとする。忘れてはならないものがあるんだよ、という強い自己主張を持つ旅館なのだ。古ぼけた見栄えのしない旅館ではあるが、何か力強く脈打つパワ-があり、それが私の心のなかにも流れ込んできたのだ。

 ビデオが途中で退席していく人がいるなかで、私は終わるまで見ていた。ちょうど、隣の席では、山口さん夫婦がやはり、ビデオを最後まで見ていた。広間には、私と山口さんたちだけになっていた。花火へは行くというので、一緒に行く約束をして私は自分の部屋へ戻った。ただのおんぼろに見えた部屋も何か歴史の重みのようなものを感じた。(つづく)


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