[ 大嶋友秀のエッセイ ]
私は、八時前に起きるとすぐに着替えて、広間へ朝食をとりにいった。すると、山口さんたちは、もう食事をしていた。二人とも浴衣姿のままだった。
広間にお客さんが揃ったところで、旅館の人はまた、おばあちゃんのビデオをかけてくれた。今回の番組は、鳥浜トメさんの孫になる義清さん一家とおばあちゃんに焦点をあてているNHKの特集番組のビデオだった。旅館のひとに訊くと、それはつい最近、放映されたものらしい。どうして鳥浜さんだけが特攻おばさんと呼ばれるようになったのかをその番組は説明してくれた。そして、それは理由は戦時中よりも戦後のトメさんの行動にあるという。
戦時中は特攻隊員たちは軍神と崇められ、人々からも尊敬を受けていたが、戦争が終わると人々の捉え方が百八十度かわり、戦時中の軍神たちの存在は、八月十五日を境に何か汚らわしいような存在へと変わってしまう。人々の価値観が大きく揺らいでいる時期に、トメさんは飛行場の片隅に木切れを立て、特攻隊として命を落とした人達の冥福を祈って毎日、お参りをしていたという。それが後の特攻平和観音堂になる。そして、平和のために戦争体験を語り継いでいく。その生きていく姿勢が今もなお、孫の義清さんたちにも伝わり、戦争の語り部としての富屋旅館という旅籠があるのだろう。
私たちは朝食を終えて、町民会館へと出掛けた。会場には、年配のひとを中心に六分ぐらいのお客さんが入っていた。やはり、テ-マが平和ということや、スピ-チコンテストという形態のせいもあってか、若者と思われる人たちは、数えるほどしかいなかった。昨日の花火大会のようにはならないようだ。
プログラムは、最初にベ-トベンの月光のピアノ演奏があり、その後でスピ-チコンテストが続いていく。前半は高校生の部で、後半が一般参加の部である。それぞれ四名づづのひとがスピ-チをして、最優秀賞、優秀賞と特選を決める。コンテストの後は、ゲストスピ-カ-として、ニュ-スキャスタ-の若林正人さんの記念講演になる。この後に映画鑑賞会として『月光の夏』が上映される。
定刻になると司会者が壇上に現れ、オ-プニングが始まった。最初に、第一回スピ-チコンテストで優勝した上野たか子さんのスピ-チのテ-プが紹介された。上野さんの体験したエピソ-ドは、映画『月光の夏』の原案になったものである。
当時、上野さんは鳥栖にある国民学校の音楽の先生だった。ある時、特攻隊として数日後に出撃の決まった少年兵二人が、死ぬ前にどうしてもコンサ-ト用のピアノが弾きたいと訪ねてくる。その少年兵たちは目達原の基地から歩いて鳥栖まで来たのだ。最後の思い出として、兵士たちはベ-ト-ベンの月光を弾く。そして、少年兵たちは死地に赴く任務のために帰っていく。
上野さんのスピ-チの朗読に続いて、月光の曲が演奏された。第一楽章の静かなピアノの調べのなかに音楽を愛した少年兵たちの純真さと運命の儚さを思わせた。第二楽章の軽やかなテンポアップした調べには、ピアノを死ぬ前に弾ける喜びが伝わってきた。第三楽章での嵐のような調べは、死を前にした少年兵たちのどこにも持っていきようのない怒りをストレ-トに感じた。オ-プニングの演奏が、私を五十数年前の鳥栖の国民学校に連れていってくれたようだった。その少年兵たちが演奏する曲に『月光』を選んだのは、その時の心境を表すのに一番ぴったりとしていたからだろうか。どうしてもそう思えてならなかった。
開会行事に続いてコンテストが始まった。高校生の部では、若いけれど真剣で好感が持てるスピ-チを聞くことができた。友達の突然の死と知覧の平和記念会館で見た若者たちの死を重ね合わせて命の尊さを感じたというもの。自分の曾祖父の戦争体験をもとに平和に対して何ができるのかを考えたもの。日本の在日朝鮮人問題や外国人労働者の不法就労問題などから国際化とは何かを訴え、まずは考えることから始めようと呼びかけたもの。ある外国人との出会いから日本が戦争に対して無関心になっていることを指摘しているもの。高校生たちの慣れない話ぶりで語られても、参加者ひとりひとりの考えや真剣さを感じて、頭が下がる思いがした。
一般の部では、四名の参加者全員がある程度の年配の方々で、二十代、三十代のひとの参加はなかった。特に、一般の部には、私も応募したひとりであるので、どんなスピ-チが聞けるのか関心が大きかった。どのスピ-カ-もそれぞれの戦争体験を基にして、戦争の悲惨さを語っていた。
また、戦争を経験してきた人達は、いろんな形で戦争で受けた傷を戦後もずっと引きずり、その人にとっての戦争は終わっていないことがあることを知ることができた。四人目のスピ-カ-であった学校の先生の「疲れてはいけない。これが平和への第一歩である」という言葉が特に印象的だった。人は疲れてはものが観えなくなる。そして、組織や団体はいつも人を疲れさせる構造を持っている。高校生のスピ-チとは一味も二味も違ったスピ-チに、あらためて考えさせられたことが多かった。
私は、コンテストに参加してみて自分のスピ-チが一次予選に落ちたのは当然だと分かった。スピ-チを考えるときだけ、ご都合主義で平和を考えたところで、そんな偽善的な態度の延長線上に人の心を動かすようなものができる筈はない。私が実際に平和について何かを考え、何かを実践しなくては話しにならないのだ。
来年の第六回スピ-チコンテストのときには、私なりの考え、私なりの実践を主張できるようになりたいと強く感じた。 コンテストが終わって、映画の上映までの時間で近くのレストランで昼食をとった。山口さんにコンテストの感想を聞いてみた。
「いやあ、来て良かったです。高校生でもいろいろと考えているんですよ」と山口さん。「特に今回の旅行は、せっかく知覧に来るんだから勉強したいと思ってたんです。本当に誘ってもらって良かったよね」と靖子さんも言ってくれた。誘った私としては、その言葉を聞いて安心した。
「来年は、靖子さんもスピ-チを書いて応募したらどうですか。僕は来年も挑戦します。知覧で来年また会えればいいでしょう」
「いいかもしれないわ。でも、書けるかな」 そんな話しをしながら、自然に平和について語り合った。
山口さんは学生時代に、カンボジアの選挙でのボランティアをしていた。その選挙では、ラジオがどうしても必要で集めるために、個別にいろんな家を訪問して、古いラジオや使っていないラジオを集めてまわったという。山口さんのようなボランティアの人達が集めたラジオが国連を通じて、カンボジアへ送られて選挙の時に使われたのだ。
靖子さんはお兄さんが二人いて、その二人とも自衛隊員である。湾岸戦争の時にPKO活動で出動するメンバ-に入りかけたこともあると教えてくれた。PKO法案が政治の土俵で論議されて、それが正しいことであったとしても、「やっぱり、親族の人が派遣されることを考えると、行ってほしくない。いやです。誰か他の人であってほしいと考えてしまうんです」と靖子さんは語気を強めて言った。靖子さんの口から飛びだしてきた本音に対して、私はただ頷くだけで何の意見も返すことができなかった。私たちは、平和論議をそこそこにして、映画、月光の夏の上映を見に会館に戻った。
この映画は、第一回スピ-チコンテストの優勝者でもある上野たか子さんの鳥栖の国民学校で体験したエピソ-ドが原案となっていた。しかし、映画では焦点を戦後に当てていた。特攻隊員として赴任しながらも、生きて終戦を迎えたひとりの男の人が、どのように生きてきたのかを描いていた。仲代達也が演じていた男は、戦時中、自分が特攻隊員であったことを伏せ、世間から身を隠すようにして生きてきていた。戦友たちが次々と勇敢に命を散らしていくのを見ながら、自分だけが生き残ってしまったことの罪悪感から自由になれないでいるひとりの男。そして、終戦を迎えた途端に簡単に変わってしまった人々の価値観。軍神と崇められた特攻隊員たちは、戦後、汚いものを見るような蔑みの目で見られることになる。その男のなかでは、戦争はまだ続いていたのだ。というより、生き地獄が始まったのだ。映画のなかで、仲代の演じる旧日本軍の兵士は、固く口を閉ざして自分の過去を認めることも語ることもしない。しかし、最後には主人公の女性に心を開いて、自分の過去を語り始める。その兵士は自分の過去を真っ正面から見つめることで救われることになる。
戦争を考える時、私はどうしても、その戦争で命を落としていった人達のことを一番最初に思い起こす。それは、いかにもドラマチックであり、悲惨であり、悲劇であるからだ。それと同時にたいへん分かりやすいからでもある。多くの人達が犠牲となった戦争は悪いのだと。どこかで、殉死したひとたちは真面目に国を思っていた結果として殉死した悲劇のヒ-ロ-であると捉え、幸運にも生きて終戦を迎えたひとたちは、どこか狡猾な非国民であったに違いないと決め込んでいたのだろう。
記念講演をした若林正人さんの話のなかでも、民主主義が絶対に正しいと考えることは間違いで、民主政権を立てたために国が無政府状態に陥り、どんどんと貧しくなっていることもあると力説されていた。感傷的な単純な考えは大変、危険なものである。
「疲れてはいけない。これが平和への第一歩である」との先生の声が蘇ってくる。
戦争は悲惨である。かけがえのない無数の命が砕け散り、多くの可能性が絶たれ、血が流れ、枯れることのない涙の海を作った。誰もが望まないことだ。しかし、それでも地球上のどこかで戦争は継続されている。間違いなく、どこかで戦争は続いているのだ。
映画を見たあと、町民会館の前で山口さんたちと別れることになった。これから、福岡まで六時間ぐらいかけて帰っていくのだ。本当は固い握手のひとつもしたかったのだが、なんだか照れくさく思えて、日本人らしくお辞儀をして別れた。
「来年、また、知覧で会いましょう」
「そうだね。来年は女房も連れて来ますよ。そして、スピ-チコンテストの参加者としてやって来ますから。気をつけて帰ってください」
「じゃあ、さようなら。手紙書きますから」「返事出しますから」と私は山口さんたちを見送っていた。知覧へ訪れて、山口さんたちと出会ったことは偶然ではあるが、平和のことを考えてみたいと思って旅をしてきた私には必然的なものであったように思えた。
山口さんが行ってしまった道を、私は歩きはじめた。両側に立ち並ぶ桜並木には花はなく、きたるべく来春に向けて賢明に生きている。その中心に整然と石灯籠が並んでいる。昨日の夜、山口さんたちと歩いて帰った道のりは思ったよりも遠く、昼間でも歩いている人がいない道をゆっくりと歩いていった。昨日は暗闇のなかから白く浮きだしてきた石灯籠は、今は太陽の日を思いっきり浴びながら無機質の肌を曝している。私はただひたすら富屋旅館を目指して歩いた。
旅館に着いて部屋に戻って思わず、布団の上に体を投げ出した。知覧への旅も今晩で終わりだ。たった二日間の滞在だったけれど、あまりにも多くの出来事が私のなかを通り抜けていった。私の頭のなかは、ばらばらになっているジグソ-パズルのピ-スのような状態になっていた。私はそのピ-スのひとつひとつを無くさないで持って帰って、ひとつひとつ組み立てていくのだ。
今日は八月十五日、終戦記念日だ。私は知覧という町で五十年前の日本の姿をかいま見た。語り部として知覧町が教えてくれたのだった。私は頭のなかのジグソ-パズルを組み立てて一年後にもう一度、知覧の町へ帰ってこようと心に決めた。スピ-チコンテストの参加者として。(おわり)




